こんにちは、えびまよシャンプーです。
いきなりですが、社会に出てから分かったことは、世の中は打算と体裁で組み立てられているということ。特に大きな組織では、中間管理職はあたかも組織が成果をあげているかのような説明を上司に話し、さらに、部下は本当に大事な仕事に取り組む時間を犠牲にして、会社や自分の利益とは関係なく、組織を成立させるために多くの時間を費やします。
こういう社会の波にもまれながら、ただの平社員の私が最近感じるのは「基礎研究的思考の薄れ」なのです。
交通手段もITも医療も、そういつまでも革新的なアイデアを与えてくれるわけではありません。
こうした発展にいたるには、様々な基礎研究が土台に引かれているのです。
しかし、昨今、世の中はつけ焼き刃的な短気流行にどんどん飛びつく消耗戦や、その場しのぎのいかにも好感の持てそうな名前の政策を駆使することに慣れ、競争が激しくなっているように見えるのです。
勉強に関しても最近では、大学って本当に行く必要あるの?なんていう声さえもあがっています。
こういう新しい活気と着想ももちろん社会にとっては大事なのかもしれませんが、この流れに飲まれて基礎研究的な考えを疎かにしていくのは危険だと思うのです。
「基礎研究的な考え」と連呼してますが、これは、目先の目標だけでなく、長期的な目標に向かって地道に頑張るという意味で使っています。土台作りのためには、たまには大きな失敗も繰り返しながら、自分にとっては数10年、社会にとっては数100年後に成果が出るような仕事にも時には取り組んでいくことが必要だということです。
最も身近な例は受験です。ここ最近は、みんなが受けるから、受けるのが当たり前のような感じになってきています。大人になると仕事の忙しさで忘れてしまいますが、受験のように長期間にわたり短期的な自分や社会の利益とは関係なく土台作りをするというのはなかなか覚悟のいる事だと思います。
よく、「数学や理科なんて社会に出ていつ使うの?」や、「英語なんてどうせ使わないし」や、「歴史を覚えても歴史好きのおじさんと話を合わせられるようになるだけ」
なんていう声を聞きます。
違う職業をいろいろ経験した上でこういうことを言うのならまだ分かるのですが、同じ企業にずっと勤めている人がこのように言っている場合はいささか説得力に欠けます。その人はたまたま勉強を活かさない仕事に就いたのでしょう。
確かにこういう学問が直接的に活きる仕事はごく少数ですが、学問はいつの間にか私たちの考え方の土台に組み込まれているはずです。
まず、数学は論理です。こみ入った人間関係や、複雑な社会の仕組みの中で仕事を組み立てて行くには思考の体力が必要です。数カ月、数年のプロジェクトを軸がぶれることなく進めていくにはこの体力がかなり重要。そうしたものを鍛えるためには、解くのに数十分もかかるような数学の難問について、問題点を短期的に記憶しながら解くという訓練を若いうちから繰り返すということが大事だと思うのです。
実際、こういう数学の訓練を積んでこなかった人たちは、愛される人柄で何とか乗りきったり、高圧的な態度で周りの人間を動かしたりして解決するというような場合もあります。
これはもう生き方なので否定は出来ませんが、このような動物的な乗り切り方では仕事のやり方を改善するのが難しく、本質的に私たちの成長に繋がらないと思うのです。
やはり、問題に対して動物的な解決を繰り返すのではなく、思考の体力を養い問題の本質を研究することにより、より良い解決法を探すことが大事なのです。
これは、歴史の勉強においても同じです。歴史はいわば前の時代の人たちからの引き継ぎ事項だと私は考えます。農業やものづくり、街づくり等の歴史は様々な技術を私たちに残し、逆に「これはやってはいけない」という教訓も残します。
いわゆる、「体で仕事を覚える」というのは肉体派の仕事には不可欠なことはもちろんですが、たまに、技術系や事務系の仕事においても肉体派の考えを引きずっているケースが目立ちます。こういうやり方では、次の世代に複雑な問題点を語り継ぐことが難しく、同じ問題を繰り返してしまう恐れが高くなります。過ちの繰り返しと言えば、最たる例が戦争です。
アインシュタインは「第4次世界大戦が起きるとするなら、武器は石とこん棒だろう」という言葉を残しています。争いが破滅をもたらすということを印象的な言葉で引き継いでいるのです。
話が大きくなり過ぎましたが、引き継ぎは過去の教訓で有り、「同じ過ちを繰り返すことなく、次のステージで仕事をする」ためには不可欠だと思います。
便利な時代になればなるほど、過程を無視して、経験則で「こうすれば上手くいく」という小手先テクニックが蔓延し、「何故そうなるのか」を考える人が少なくなっていきます。
上手くいく方法だけを使い、無茶な仕組みや制度を積み上げていけば、いつか矛盾に溢れて整合性を保てなくなっていきます。例えタイムロスをしてでも基礎に立ちかえることは必要です。
これはブラック労働に特に言えることで、会社は本当に必要な仕事や仕事量を見極めることが、大事なのです。膨大な仕事を何とか時間内に押し込めて解決しようなんていう解決方法はナンセンスの極みです。みんな長時間残りたくなく、早く仕事をする方法はやりつくしているはずであり、時間短縮の余地はもう限られているはずです。
一方、時間短縮を目指して仕事の仕組みを変えた場合にはミスが生じやすくなります。これを防ぐためには徹底した検証と初期投資が必要なのです。
そのため、多くの上司はこのタイムロスやミスの起きるリスクを嫌います。これは当然といえば当然。
仕組みを変えようとすれば、今のやり方を極めたベテランから文句が噴出するでしょうし、社長もどこかの部署でミスが生じれば、チャレンジした人に責任を負わせて、「チャレンジしたことに対する評価」がなされることはありません。これはよほど良い会社じゃない限り、頻繁に起きていることと思われます。
結果、何一つ変わることなく間違った仕組みを守り、ブラック労働が繰り返されるのが現状。
今のやり方を改変するのではなく、根底にある仕組みを変えることが必要です。特に、執拗な飲み会や、ハラスメントを通して出来上がってしまった関係性は、本質を基礎研究する力を鈍化させます。
こうなってくると、やばい人間は何とかうまく遠ざけて、新しい人を投入したうえでもう一度まっとうな人間関係を構築していくしかありません。日大アメフト部が首脳陣を入れ替えたように。
以上のように、明らかに今の日本の風潮は基礎研究的やり方から逆行しています。基礎研究に携わるポスドクの多くの給料は非常に安く、時給に換算すれば大学生のバイトと同じくらいです。
また、研究職は安泰ではなく、結果主義の厳しい世界。数年契約の若手も多く、結果が出なければ職を失うことになります。
このように地に足をつけた高度な専門職が減り続ければ、小手先テクニックにより、大事な部分が社会に覆い隠され、矛盾だらけの世の中になっていくと思われます。
こういう流れに流されないためには、矛盾や偽りを見抜く力を小さいうちから養っていくべきです。そうしなければ次々に訪れる流行に踊らされ、自分自身の軸が大人になっても定まらなくなってしまいます。
流行を精査し、疑い、少しでもうそいつわりの無い、本当の価値を追っていきたいものです。